ホーリー・スモーク

 インドで宗教に洗脳された娘をアメリカ一腕利きのデバッカーが脳みそデバックする話だと期待して、どんな手段で脳を洗い直すのだろうとそこに注目しながら見た。

 なんぢゃこりゃぁぁぁぁぁ!

 見終わった瞬間、「コレハブラックジョークナエイガデスカ?」と自らに問いかけてしまった。初めから変な違和感が漂っていたのは確かだ。ケイト・ウィンスレット演じる娘の親戚どもはバカばっかりだし、途中みょ〜〜〜〜〜〜〜なインドテイストなエフェクトシーンが何ヵ所も出てくるし、ハーヴェイ・カイテルは娘の親類とヤっちゃうわ、デバックかけてる娘ともやっちゃうわ、最後には女装までしていたし。それでも私は洗脳を解くためにここまでやるんだな、デバッカーとしてのプロ根性だなかなか……やるよね?、全部洗脳を解くためだよね……? と途中疑問を抱いては打ち消して見ていた。ラストまで。最後にその洗脳騒ぎから一年後のことが語られる。それを見たときに「えええええええ」ですよ。

 実はこの映画は洗脳、脱洗脳の話じゃなくて悟りを開く映画だった!!つまり主題は娘の洗脳が解けるかではなく、男が自らのコンプレックスから解放されるだったのだ。冒頭からのカイテルの描写が妙にシンボライズされた男性像として描かれていたことや、途中の脱洗脳描写中にウィンスレットの方がカイテルよりも上に立っているような言葉のやりとりが多かったことにも合点がいく(実際は見てる間、ウィンスレットの洗脳、こんなんで解けるんかいな。とか言葉のやりとりがあまりに少ないし、全然意思の疎通が図れてないやん、とか思ってた)カイテル演じる男は男という殻を脱ぎ捨てることによって人間的に一皮剥けたのだ(欧米人の考える悟りってやつ) それが一年後の描写で明らかとなる。娘はインドに戻り、男はパートナーと結婚し、双子の世話をしながら本を執筆している(つまり自らが縛られていた価値観からの解放)。そんな映画だったのだ。

 そう解釈して見たんだけど、特典として収録されている予告や公式サイトなどを見るとそーいうのとも少し違うらしい。だいたい「空に抱かれ太陽に愛され、それでも私は一人だった」ってなんだ?けっきょく、何がしたいのかさっぱりわからない映画だった。