きみの友だち 重松清

 あいかわらず心をえぐる。重松清がオトナじゃなく10代の子達を『友だち』という言葉を軸に語る物語。文句なしに素晴らしい。映画でタランティーノパルプフィクション以降ありがちなタイムラインの不統一は少し、物語からの感情の離脱を誘う気がしないでもないけれど、それでもいい。これを読み終わったとき、涙がしばらく止まらなくて困った。そして、映画では泣かされるのが嫌いなワシがどうして書物で泣くことは厭わないのだろうと考えた。この本の中でもポイントとなっている自分のペース。映画は2時間という他人のペースで巻き込まれ、泣くことを強要される。一方、本の場合は自分のペースで読み進め、気になるところは読み返し、自分一人だけの世界で物語に没頭できる。それはきっと文字を読みながら、頭の中で映像を組み立てているから。逆に映画は目から入ってくる映像から内容情報を引き出さないといけない。これがアクションならシーンに身を任せ感じればいい。謎解きなら作り手の意図を引き気味に感じながら見ることもできる。ところが泣ける映画にはいまいち説得力に欠ける。もちろん、ピュア(笑)な人ならその記号を受取り泣ければそれでいいんだろうが、ワシはそんな人間は嫌いなもんで。閑話休題

 『友だち』ってなんだろうね。血も繋がってないし、愛してもいない。自分とは関連性が濃いわけじゃないはずなのに大切なモノ。特に学校、教室という閉鎖的空間では非常に重要なモノである。『友だち』って実は『味方』を聞き易い言葉に言い換えただけなんじゃないかな?そう思って、敵はenemyだけど、味方はなんて言うんだ?とわからなかったので英辞郎で引いてみたらbehalf, friend, part, partisan と出てきた。友だちは味方なんじゃん。そう考えるとすっきりする。クラスという閉鎖的空間で敵、中立、味方という力関係が常に動いている。それを気にしすぎるとダメだし、気にしなさすぎるのもダメ。そう考えるとシビアだな。オトナ以上に。オトナは逃げ道あるけど。

 本の中身の感想に戻ると、話の中心である松葉杖の恵美は小学生の時分に事故で足を不自由になった代わりに他者を見つめる視点、自我の確立が早かったことが彼女の人生をすごく良いものにしていると感じた。もちろん、お話の中であり作られたものだとは思うが、恵美という揺るぎない存在が短編ごとにクローズアップされる個々の人間に救いを与えていることからも感じられる。思春期という不安定な時期に確固たる存在がいるということはその人にとってとてもありがたいことだ。自身の記憶を振り返ると友人関係で悩んだ記憶は、ない。今考えると利用されていたと思うことも多々あるのだけれど、そこで悩んだことのない私は単純だったというか、人間関係にそれほど重きを置いていなかったということか。その辺はさらに熟考が必要だけれど、自分自身、クラスが変われば友だちも変わるというケーハクな感じが高校まで続く。高校で知り合ったツレとは現在も親交があるが、こちらは緩いつながりだからだろう。大学時代は精神的な引きこもりの面もあったので、その後の親交は無い。そんな経緯をふまえて考えると、私にとって友人とはなんだろう?色々考えることになりそうだ。年賀状も書かないといけないのに。┐(´-`)┌